ひとたび業者になってしまえば、白分がつくったいようにつくるということは、きわめて至難であろう。 いきおい、売12物になるよバ、冒毎種木を求め、売り物になるようにつくる術を身につけなげ雄ばな房な奪なる。 畿つでも、たとえ売ったにしても、その後の手入れを引き続きできるどいう場合には、業者は仕合わせである。 このようなケースがある程度まで保証されれば、白らの作風を磨き、追求していぐこども可能になる。 だから、業者にしてみれば、お客とできるだけ緊密になろうとし(また、気心の知れたお客にだけ売りたいと思うのも、ごく当然のことである。 一方、趣味家の場合、売り物になろうとなるまいと関係ないはずだから、白由に気のおもむくままにつくればよい。 人にほめられようと思わなけれぱ、なおのことである。 しかし、現実はそう単純に割り切れるものではあるまい。 実際に売らないまでも、白分のつくった木が二束三文の値打ちしかないということを否定する気持ちを、誰しもが潜在的に抱いていよう。 いざ売るとなったら、高く売れたほうがよい。 しだいに野心的な試みは薄れ、安全策を択ぶようになる。 こう見てくると、業者と趣味家とは、その立場こそ違え、ひじょうに似通った状況にあることに気づく。 両者とも結局は、売り物になる木をつくっているのではないか。 少なくとも、そうなりかねない要素をはらんでいるのではないか。 |