泥棒猫。
一番後ろの座席からは車内は一望に収まる。
真夏の昼下がり、乗り合いバスは気だるそうにのろのろ走ってのろりのろりと停車した。
ガヤガヤと二人ほどおねえさんが乗り込んできた。
あっ、あの横顔に見覚えがある、猫だ、猫だ、泥棒猫だ。
飛んで火に入る夏の虫、チャンス到来だ。
この機を逃してなるものか。
目指すバス停が近づく。
後部座席から見覚えのある横顔へと通路を進む。
「こんにちは。
お出かけですか。
いつもお世話になっております。
夫のほうも何から何まで本当にお世話になってまして、ありがとうございます。
熟女のテクニックか何なのか知らないけれど余計なお世話なんですけどね」「…………」
 若さ故の愚かさ、無神経な無知さ加減などと侮られ笑い者にされてはならない。
ましてや従業員に砥められているわけにはいかないのだ。
ある日、買い物帰りの街中の歩道脇に一台の車がっっと停まりクラクションが鳴る。
助手席のドアが開いて女性が降り立ち、どうぞという仕草がありその女性は後部座席に移動した。
会社の車だ、運転席で夫がハンドルを握っている。
やっぱりそうなのだ。
車内は空気が澱んでいて重い、何かしらそれらしい匂いを瞬時に嗅ぎ取れて核心的な雰囲気は否めない。
間違いない、夫の相手は後部座席に移った女に違いない。
助手と称して常に同行している女なのだ。
 後ろめたさもあり、目の前で信号待ちしているわたしをやり過ごすことに、ためらいがあったのだろう。
素知らぬふりで青信号を突き進めばいいものを、その行為は不細工としか言いようがない。
自ら後ろめたい事実を白日の下に曝してしまったではないか。
あえて墓穴を掘ってしまったのだ。
だが状況証拠だけでは落とせない。
確たる証拠、現場を押さえなければならない。
このところは知らぬ素振りを決め込むほうが得策というものだ。
「今夜も帰りは遅いの、食事の用意は」。
 「わからん、事務所に戻ってみなけりゃわからん」 「そう、食事は用意しておきます」。
「余計なお世話はいいからちゃんと仕事をなさい仕事を、この泥棒猫が!・」。
泥棒猫とはオス猫かメス猫か? 「なんてこと言うんですか奥さん……。
公衆の面前でなんていうことを……」 「なにが公衆の面前でなのよ、偉そうに。
公衆の面前で言われて困るようなことはしないことね。
ほしけりゃくれてやるわ、のしつけて。
ついでにおリボンもつけましょうか、この泥棒猫が」。
 目的の停留所にバスが停まる。
軽く頭を下げてバスを降りる。
にっこりと笑顔を作り、周りの乗客に失礼いたしましたと遂に言った、言ってしまった。
爽快というほどに実にすっきりた。
悶々とした胸のつかえが下りた思いだ。
 天を仰ぎ大きく伸びをして深呼吸をする。
燦々と降り注ぐ陽の束が目を射て軽い目まいを覚える。
 大空は冴えざえとあくまでも冴えざえと清んでいる。
清々しさとともに胸の奥底がヒリッとしないわけでもない。
一対一できちんと向き合って言うべきことだったのかも知れないが、どの道、白を切り通すだろうし、それではつまらないし癩だ。
グウの音も出ないほどに制裁を加えてやらなければ治まらない思いがある。
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 待つ気もなく、帰る気も漫ろにそっけない会話は続かない。
事を気取られまいとして取り繕いながら今夜は帰って来るだろう。
わたしも相手も性懲りもなく、泥棒猫パトルは繰り返されていた。
 姿を見かければ事もなげに近づき挨拶をして、日頃公私ともにお世話になっていることへの礼を尽くし、嫌味というスパイスをたっぷりときかせて接した。
「夕べは如何でしたか、楽しめましたか。
夫もきっと楽しんだと思いますよ。
いつもありがとうございます」とか。
「今夜はどちらでお楽しみですか。
よろしくお願いします。
ガンバッテね」とか。
「熟女のテクニックつていうのですか、その手法を伝授してくださいますか」とか。
穏やかに穏やかにあくまでも穏やかに、そして、じわじわジクジクと追い込んでいった。
ぎゃあぎゃあとわめいたり毒づくよりは、そうしたほうが効果的だと考えたのだ、若いながらも(充分に毒づいていたかも知れない……女ってコワイわ)。
その間、夫には何ひとつ愚痴も文句も言わずに過ごした。
仔猫ちゃんか化け猫か知らないけれど、そちらからわたしの言動は聞いているはずなのだ。
そうして月日は流れ、いつしか猫はどこへともなく姿を消した。
なんかあっけない幕切れだった。
若かりし頃の、わたしが二十八歳のひと夏のできごとでした。
 それにしても悪事を働く当人にではなく、何故女は女に牙をむくのだろう。
女の敵は女ということなのか、それとも日常生活に余計な波風を立てまいとする潜在意識のなせる業なのだろうか。
とにかく暑い熱いひと夏だった。
近頃は、何事に対しても怨念とか情念とかいう感情に疎くなり縁遠くなってしまった。
愚痴や文句、恨みつらみ、憎しみなどに感情を揺すぶられることも少なくなった。
少しは大人になったということだろうか。
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